本事業は、Social Projectとして多くの企業様や医療機関様と力を合わせて、また共に役割分担を明確にしながら実現に突き進んで参ります。プロジェクト責任者の河﨑は、これまでの20年間の思いを次の10年で実現すると決心しております。世界中で困っておられる患者様(我々自身も含めて)が「どこに住んでいても、言葉が分からなくても、お金が足りなくても、適切な医療にたどりつける仕組み」を共に力を合わせて創りませんか?
医学生時代、かなりの思い込みがあったかもしれないが、自分の将来像として「やりがい、肩書、お金のどれを最も大事にすべきなのだろうか」という浅はかな思いから始まってアメリカやヨーロッパを旅し、結果的にアジア諸国を旅行することが多くなった。
インドからネパールに入り水道やトイレも整備されていないような村にたどり着いたところ、医療系の学校があった。そこの医学生と話をしていて「将来、この地域の医療を良くするのですよね?」と尋ねたところ、その医学生は「無理だ」と答えた。「この村では、医師として働いても絶対に食べていけないから、自分はカトマンズかポカラに行って医師の仕事をする。この村の医療を良くすることは無理だと思う」。
私は衝撃を受けた。何でもやればきっと絶対に出来るはずと全く根拠のない自信のようなものを持っていた私は、「地元の医学生でさえもこの医療環境の打開は不可能と思うのか。。」と絶望的に感じたことを覚えている。インドで多少痛い目にあってそれを乗り越えた後だったためか、起こることの一つひとつを映画のワンシーンのように感じていた私は、若気の至りもあってその言葉を聞いて益々根拠のない自信がみなぎり、「これを打開できたら、これは絶対にやりがいがある。きっと何か方法があるはずだ」とふつふつとしたやる気が身体にみなぎった感覚を忘れることはない。
その頃から、医療途上国の医療改善を目指す諸先輩方の情報を探すようになり、またアフガニスタンの人々のために賢明に活動される中村哲先生(ペシャワール会)に憧れて福岡市のオフィスを訪れさせて頂いたりするようになった。
研修医の頃、まだ進路の最終決定には至っておらず、この手で人の命を救う脳神経外科医や心臓外科医、また生まれつき先天性奇形を有する患者さんの手術をして子供の人生を大きく前進させる形成外科医などに憧れ、複数の医局や病院などを見学させて頂いた。
一方で、学生時代の強烈な思いを忘れることはなく、病院を見学すればするほど、自分は「まだ解決の糸口が全く足りていない医療に恵まれない地域の医療を改善させる仕事をしたい」と強く思うようになった。
ちょうどそんな頃、勤務先の病院で、南スーダンで活動されるロシナンテスの川原尚行先生のご講演を拝聴するきっかけがあった。またベトナムの赤ひげ先生こと服部匡志先生の番組に偶然出くわしたり、ミャンマーでご活動されるJapanHeartの吉岡秀人先生のご著書を読んだりして、力強いメッセージを頂いていた。アフリカのエイズ対策を大きく変えたBroadReach Healthcare のErnest Darkoh医師の文献・関連著書・映像にいたっては、何度目にしたことか。
そうこうしているうちに、「幅広く何でも診れる医師になって、自分の組織を作ろう」と次第に思うようになって来た。どんな症状でも対応できるのはきっと救急医だと考え、救急科で研鑽を積んで、腹痛でも胸痛でも骨折でもまた命に関わる急性疾患でも何でも対応できる医師になろうと思った。
救急医の道に進み専門医試験に向けて勉強していた頃、医療途上国に行く前段階の今でも 「医療が届かないという課題」は何らかの形で目の前にもあるはずだと思っていた。目の前でも困っている人はいるわけで、途上国に行くまでは出来ないというような話では無いだろうと思っていたことを覚えている。
「医療が適切に届かない」というテーマを考えながら仕事をしていたところ、救急車を呼んでも病院にたどり着いて数日以内に亡くなったり、重い後遺症を残したりする結果になってしまう患者さんが沢山いることに気付いた。救急車を呼ぶことをためらい、手遅れになってしまう患者さんが何人もいた。
救急医療が「届かない」障壁の原因は情報障壁だった。病院の中では当たり前の知識が病院の外では知られておらず、症状を我慢して手遅れになってしまう。「我慢してはいけない症状」と「様子をみて良い可能性が高い症状」を出来るだけ線引きして、その情報を広く知ってもらうことで救急疾患の手遅れを減らしたいと思って「いつすべきか?119番」というイラスト著書を作った。福岡市内の公民館、健康教室、小学校、自治体などで話をしたり、福岡県直方市の救急部署で使用して頂いたりして、適切な医療にたどり着いて頂けるよう活動を2年間続けた。日本ではあったが、自分にとっては初めてのボランティア活動だった。
その後、東日本大震災が起こり、宮城県でボランティアに参加させて頂いた。病院の先生方は病院で多忙なため、私は一医師として避難所を周ることにした。避難所にある処方薬について患者さんに使用の助言をさせて頂き、また症状に関する質問にお答えしながら、避難所で医師として出来ることを精一杯やろうと思って周回させて頂いていた。
そんな中、震災関連死の予防に関する情報が避難されている方々に届いていないことに気付いた。震災関連死とは避難所で2次的に起こる疾患で命を落とすことで、最初の半年間で2,000人を超えた。特に地方の避難所で手遅れになっている実状を知った。今回は情報障壁と地理障壁。最初は避難所を周って震災関連死を予防する方法を紙芝居形式でお話しさせて頂いていたが、地理的な問題や時間の問題もあったのでラジオに切り替えた。その後の2年間、毎週避難所に向けてお話をさせて頂いた。
2つのボランティア活動を通して、ふと思うことがあった。たとえ短い期間ではあっても誰かのためになるのであればある程度の価値はあるが、「いかに持続できるか」も大事なポイントなのではないか。今回の2回の活動では様々な方々や組織にご協力を頂いたが、無償で続けるのであれば、自分だけは何とかなっても他の多くの方々に長期にわたりご協力をお願いすることは難しい。特に専門職の方々はそのスキルで生活をされていて、長期間のボランティアをお願いすることは現実的ではないのではないか。誰しにも生活があり、守るべき家族がある。さらにもし自分が10年後に死んだら、持続可能性はどうなる?(この問いに対するアドバイスは、2019年、尊敬する中村哲先生が残して下さった)
私はまだ医療途上国で何の組織も立ち上げていないにも関わらず、そのようなことを思うようになっていた。そんな時、高校時代の旧友と話していたら、社会起業家という言葉があることを知った。社会問題を大きく解決する方法には様々あるが、最も重要なものの一つは「その社会問題に対する持続可能なビジネスモデルの確立」だろうという話。その頃、Microfinanceで有名なMuhammad Yunus氏(ノーベル平和賞)の公演を聞く機会に恵まれた。その後、Yunus氏の著書やSocial Entrepreneurshipに関する情報をむさぼり読んだ
自分の中では、少し何かを想像できていた。「お金儲けならたぶん何とかなる。少人数による一時的なボランティア活動もきっと何とかなる。でも、超優秀なメンバーに長期間にわたってご協力を頂き続けるには、その活動を健全なビジネスに落とし込み、どんどんと若い優秀な方々が憧れて入って来て頂けるスキームを自分でつくるしかない」。
そのような目標を持つ人達が世界中から集まっていると思い、またSocial Businessと公衆衛生の混合がヒントをくれるはずだと考えてMBAとMPHで米国に留学した。
留学中、「医療が届かないという課題を克服する仕組みをSocial Businessとして作る」方法を考えることが頭の中のほとんどを占めていた。その他のことに時間を使いたくなかったので、随分と付き合いが悪い人間だったと思う。
学生という、学ばせて頂ける立場に戻った。自分の目で医療途上国が変わっていく状況を確かめたいと思っていた。実地研修では南米ペルーに行き、インドのベンチャー企業によるMicrofinanceと医療を結び付けたプロジェクトにコンサルティング事業として参画させて頂いて、小さなビジネスの仕組みが貧困層の医療を変えようとしている状況を肌で感じ、また抱える課題もある程度理解できて自分のプランへのヒントになった。
また、Dartmouth大学病院やMBAのVijay Govindarajan教授(Reverse Innovation)が、2010年の大地震で医療体制が崩壊したハイチ(カリブ海)のサポートを行っており、そのグループの活動の一部がオンラインで行われていて、そこからのヒントもあった。帰国して自分の会社をつくり、医療過疎の課題を解決できるプロジェクトをつくることに決めた。
帰国後、まずは患者さんが医療にアクセスする際にぶつかっている障壁を打開できる仕組みづくりを目指すことにした。奄美大島瀬戸内町の茂野さんを初めとして保健福祉課の心熱い方々とのご縁を頂いて、日本の医療過疎が抱えている課題を書き出す作業が始まった。そして、それを解決する方法をシステム開発に落とし込み、現在もその拡大に努めている。
また平行してアジアの医療ボランティアに参加させて頂いて、少しずつだがネットワークを広げる機会を頂いた。ベトナム南部の医療機関を朝・夜に周り続け、現地の医師から課題を教えて頂いた。カンボジアでは、救急医や救急救命士にレクチャーをさせて頂く機会を頂き、また患者さんが国立病院にたどり着いてからの課題を目の当たりにさせて頂いた。ベトナム北部の服部先生の眼科ボランティアでは、地元行政や医療機関との連携の重要性と途上国医療開発の心についてほんの一端だが勉強させて頂いた。
これまでの奄美大島での学び、アジアでの出会い、そしてシステム開発の経験をもとにさせて頂いて、2020年4月JapanPrivateDoctorを始動させた。思い始めてから20年。この10年で必ず結果を出す。